盛田昭夫

盛田昭夫は愛知県の造り酒屋の家に生まれた。大学卒業後、海軍技術中尉となり、1943年科学技術研究会で井深大と出会う。1945年東京日本橋の白木屋デパート3階に東京通信工業を設立。

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盛田昭夫

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盛田昭夫


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盛田昭夫は愛知県常滑市の造り酒屋の家に生まれました。


1944年大阪帝国大学理学部物理学科卒業後、海軍技術中尉となり、1943年陸海軍と民間の研究者からなる科学技術研究会で井深大(後のソニー社長)と出会います。


1945年東京日本橋の白木屋デパート3階に東京通信工業を設立します。井深の義父の前田多門(元文相)が社長、井深が技術担当の専務、盛田が営業担当の常務となって事業をスタート。


東京通信工業は、国産初のテープレコーダやトランジスタラジオなどの画期的な商品を次々と開発。


1955年より「SONY」のブランド名を使い始めます。


盛田はSONYのロゴの入ったトランジスタ・ラジオを持ってアメリカに売り込み行き、大手時計会社ブローバー社から10万台のオーダーという大口の引き合いを受けました。しかし「SONYでは売れないから当社の商標をつけさせてもらう」という条件付きでした。


「それでもかまわないからとってこい」という本社を説き伏せ、盛田氏はこの商談を断ったといいます。身の程を知らないと嘲笑するブローバーの社長に、盛田氏は言いました。


「50年前に何人がお宅の名前を知っていたでしょうか?我が社は、50年前のあなた方と同様に一歩を踏み出したところなんだ。50年経ったら、世界中でSONYを有名にしてみせる。だからこの話はノーサンキューだ」


その2年後、盛田氏はアメリカの2大電気機器販売会社のひとつアグロッド社との長期契約を獲得します。商品にはSONYの商標がついていました。


1957年世界最小のポケット型トランジスターラジオを発売。1958年社名をソニーと変更。


1960(S35)年アメリカ販社を設立し社長に就任し、米放送大手CBSと提携し音楽分野に参入するなど、事業の国際化に努めました。また、この年世界初のトランジスタテレビ発売。1961年日本企業として初めてアメリカで新株を発行、2時間で完売し「ソニー神話」が生まれました。


1971年、社長に就任(井深は会長)。その間もソニーは発展を続け、トリニトロンカラーテレビなどヒットを続けます。1976(S51)年、井深の名誉会長就任と同時に会長となった盛田は、自ら企画したウォークマンで大ヒットを飛ばしますが、一方で家庭用ビデオデッキの企画統一問題では、あくまで自社独自のベータ方式を堅持し、VHS陣営に市場で敗れる結果となりました。


1986年、最若手の経団連副会長に就任します。日米賢人会、日米財界人会議などでも活躍し、財界の外務大臣の異名があります。1989年コロンビア映画を買収、新しい日米関係のあり方を問う『NOと言える日本』(参議院議員・石原慎太郎との共著)を出版するなど、その言動は国際的にも反響を呼びます。1991年、勲一等瑞宝章受章。1992年英国王室から名誉大英勲章を受けます。


1993年脳内出血で倒れ、以後、ハワイで療養。1994年ソニーのファウンダー・名誉会長に就任。1998年、米誌タイムの11月発売号でビジネスの世界で今世紀最も影響力のあった経済人20人として、日本でただ1人選ばれました。


1999年肺炎のため永眠。享年78歳。


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